屍者の帝国 考察記事Part1

求めたのは、21グラムの魂と君の言葉



こないだTV放送された屍者の帝国、見終わった感想はもう何が何だかわけわかんねぇ!でした。

調べたら劇場版の評判は悪いこと悪いこと。
特に原作とだいぶ改変されていて原作ファンにはかーなーり不評のようで。

そ こ で
ネットを駆使して情報を集め、なーるほどなァとある程度理解した上で、

この映画はこう見ろ!!

という視点の一つをわりばし先生がつらつらと書いていこう。



さて、主人公ワトソン君は物語の中で一貫して親友フライデーの魂を探し求めているわけだ。

ここでみんなが抑えて押さえておかなければならないことがまず一つ。

ワトソン君は、言葉が魂の存在証明であると考えているということである。

ここには、
『思考は言語に先行しているかどうか』
という問題が関係しているんだな。

そもそも、伊藤計劃の小説は「言葉」や「心」あとは「自我」なんかを扱っていることが多い。

だから、この点に注意しながら見る必要があるわけだね。

話を戻すと、思考が言語に先行してあるということは逆に考えると、言語を話せばそこに思考が存在するということになる。
そして、
思考があるということはそこに魂があるはずだ。

こういうアプローチでワトソン君はフライデーの魂を取り戻し、その存在を証明しようとしたわけだ。

だがしかし!
ここがこの物語を面白くする所なんだけどね。
ワトソン君とフライデーの間には一つの約束があったんだ。

それは、
魂が戻ったらフライデーがペンを振る合図を送る、という約束。

だからこの2人に限っては、言葉以外の方法で魂の存在証明ができるんだ!
すごいね!

さてここまでを簡単にまとめると
・言語の使用=魂の存在証明
・ペンを振る=魂の存在証明
という2つの方法でフライデーの魂があるかどうか見分けることができることがわかった。


おかしい…
もっと簡潔に書くつもりが長くなってきている…
まだ物語すら始まっていない…

仕方ないので考察記事は複数回に分けて書いていくことにします…

そこで今回はオマケとして
思考は言語に先行して存在すること
を考えてみよう。


僕たち人間は何かを考える時常に言葉を使っています。
例えば今日の夕飯は何を食べようとか、明日はどこに行って何をしようとか。

となると、ここでボク達は言語が思考を規定しているのでは?という問題にぶち当たるわけです。

だって言語がないと考えられないもんね。

でも、実際はそんなことない。
言語がなくてもボク達は思考している…はず。


ここで、有名なクオリアの話を例に出してみよう。

赤い色を見たとき、ボク達は赤と表現することしかできない。
せいぜい濃いとか薄いとか、どちらにせよ言葉を使ってでしか赤色を表せない。

しかし、ボク達が赤を見たとき、そこには言語以前の感覚的な認識がそこにあるはずなんだ。

クオリアってのは簡単に言えばこの言語化される以前の感覚的な認識のこと。
自分だけの赤ってやつ。
(まあこの解説も言語に縛られてしまうから難しい問題でもあるんだよね…)

もっと簡単に言えば言葉にできない感じでもいいんじゃないかな?

だ か ら
とにかく、言葉は思考を表現する枠組みではあるけれど決して思考に先行してあるわけじゃないんだ!


ふぅ…
オマケも長くなっちまった…
でもこれ屍者の帝国見る上では大切なポイントだからいいよね…


思考の扉は常に
開いているぞ。







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